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[原创] 源田实——光环的背后

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              源田中佐
8 S) b5 X" F# m% z8 J5 }源田 實; N& N8 x7 `5 l: y0 \
1904(明治37)年8月16日生# b' _9 z- q9 }/ T
广岛县山县郡加计人
$ S: O* A' K) p! k5 P. W, r+ x最终军衔 海军大佐9 i8 o! y: {1 i5 V
1921(大正10)年 旧制广岛第一中学毕业
! M) x/ L( I: F' c8 ^" J3 y# @1921(大正10)年 海军兵学校入校
6 z, g" a$ a! [1924(大正13)年7月 海军兵学校(52期)毕业3 \0 a# }4 g8 z4 m# |! @8 S, @' X
1928(昭和3)年 飞行员学生
6 W! l+ ~+ c4 O! V1937(昭和12)年7月28日 海军大学(35期)恩赐毕业
+ ~9 t9 n, q' H% w1938(昭和13)年1月 横须贺航空隊飞行队长$ y& b4 G% w- h
太平洋戦争開戦時、第1航空舰队航空参謀(空母「赤城」座乘)\r) t& N: {' H' O, O3 w
1941(昭和16)年12月7日 参与珍珠港袭击
& V& }, a) Y# `/ ^1942(昭和17)年6月 中途岛海战. i4 q+ _+ R5 T! H4 I! h
大本营海军部作战参謀\r7 u+ }$ O4 [$ R3 L6 T% p
第343航空隊(松山)司令 * P/ e( F0 V6 _8 q. |
 败战时、343空司令
; J, o4 Y+ s" y: d- D7 }% T1954(昭和29)年 防卫厅入厅
/ J9 W5 }) k  Q1959(昭和34)年7月18日 航空幕僚長
* ^+ z' p* ?& r9 ]1959(昭和34)年7月 退休
) v. w. [. }. _+ A$ q1962(昭和37)年7月 参议院议员
3 O! g1 t8 O  t( _' _, D% K: q 4次连任+ x( X! [& |+ E9 U: H" ~. s% p
自由民主党国防部会长

- _4 Z. H/ b  T/ k( U2 m1989(平成元)年8月15日
: u2 f  [7 A# D# g   在南高井病院(松山市)死于脑血栓 享年84
8 ~  H; M. B& I: I
: n1 E8 j6 v4 L% Y6 ]% V: }. r' y7 Q+ g
    源田实,这个珍珠港袭击计划的主要制订、参与者,二战日本海军航空兵的大脑,长期以来一直有着关于其的各种传说和故事。战后,源田显赫的经历(数届国会议员、空自幕僚长)似乎也证明了源田是一个极其优秀的人。
- o( \4 k+ o/ B5 d4 V/ |1 ]    但是,随着近年来史学界的不断研究以及源田的故世,关于源田神话的疑问越来越多。在此,我们也一起来探究一下源田不为人所知的另一面:

5 g1 ~8 C5 C. `        一、众所周知,源田在30年代的日本海军是一个铁杆的“航空派”,他所提倡的“战舰无用论”在当时守旧思想较重的日本海军内可谓是一股清风,被认为是日本海军航空兵的旗帜和先锋。但是,作为战斗机飞行员出身的源田的思想其实是比较狭隘的,他对于未来的航空作战既没有进行过深入的思索也没有钻研过任何理论知识,仅仅是赶了一个时髦,吵着嚷着要发展航空兵而已,但对于航空兵真正的理解,只是处以一个比较浅的层面。比方说,那个时代曾有主张装备高速轰炸机,不配备战斗机护航就可以执行任务的“战斗机过时论”的存在。源田不仅无条件的予以支持,并成为这股思潮的代表人物。他上下运动,四处奔走,最终使得日本海军将不少战斗机飞行员调往轰炸机部队,还削减了战斗机学校的预算。
8 R2 R- H8 \7 w4 S7 a+ |% {& e! B3 Z% o    结果,当日本陆海军的轰炸机在中国大陆单独出击,遭到重创之后,海军才急急忙忙改变策略,重新重视起战斗机部队的培养和装备起来。但是,先前的错误决策影响是巨大的!太平洋战争开战以后,日本海军立即陷入战斗机飞行员不足的怪圈,并且直到战争结束也没有建立起一套完整的战斗机飞行员培养体制,对此,源田确实负有一定的责任。
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        二、源田虽然是战斗机飞行员出身,但是深信一战时期的“骑士一对一”战法,对于欧洲流行的战斗机利用自身高速,一击脱离的动能作战模式充耳不闻。因此,他过分强调战斗机飞行员的素质,极端忽视飞机的防护。曾有飞机制造厂商,向日本海军提出过增加飞机装甲,保护飞行员安全的建议和提案。但只要到源田这里,总是会吃闭门羹。“这样的话,只会使得飞行员忽视自身技能的培养,而蜕变为依靠机器的胆小鬼。”这就是源田的口头禅,也是其内心真实思想的具体体现。
2 ~2 K: w' v: q; n3 P/ `    源田的这种想法,也代表了当时日本海军内部一批航空人士的想法。这种怪异的拒绝科学的思想,阻挠了日本海军飞机的开发和研制,进而极大地影响了今后的作战。
3 A0 X. }; k( q) c( L8 ~% U    在关于战斗机的开发和战法上面,源田的同班生柴田武雄经常与源田实发生争论,但限于在海军内的影响,柴田的意见基本上每次都没有得到通过。而在今天看来,柴田的想法才是正确的,源田是错的一天世界!
) I4 m2 |) `1 T9 J/ O2 p! _
         三、曾经是源田和柴田两个人部下的战斗机飞行员坂井三郎在战后的回忆以及著书中,都对源田持批评意见。可见,源田也不是一个非常得人心的领导。与部下关系紧张的一个重要原因,就是对于特攻作战的看法。
& A& _: P: {8 C- S+ O    根据近年的研究发现,源田是日本特攻作战的始作俑者之一,自始自终积极主张、推进和实施特攻作战。就是他,给大西龙治郎的第一次神风特攻作战的部队起了名字还发了通知电文。他也是人体火箭“樱花”的几个主要立案者之一。此外,联合舰队司令部一直希望343航空队也参加特攻作战,但都被志贺飞行长拒绝了。最后,源田亲临部队营房,向志贺施加压力,要求部队参加特攻!
* H7 x  m9 e( d+ [    据志贺回忆,当时他回答,“好吧,我懂了。那我请求由我来担任特攻的领队,第一个上天。而贵官也请一起参加这次作战,这没问题吧。”源田闻听此言,顿时一脸苍白,离开了驻地。从此,再也没有在志贺面前提起过“特攻”这两个字!
/ T1 U% X8 b* J    战后,日本海军第一个实施特攻作战的大西龙治郎畏罪自杀,而此种作战的理论家源田则保持着沉默,一直没有发表过任何意见和道歉。因此,在战后神风队员的纪念塔前,源田受到过神风队员遗族们的围攻,被诘问得哑口无言。

6 i5 Q. U( |: d6 @0 N# \     四、源田还是一个虚荣心很强的人。战后作为航空幕僚长空将(相当于中将,配三颗星)访问美国商讨下一代战斗机的采购事宜时,源田要求美方给予美空军上将这样的高规格接待时,遭到了婉言拒绝。自信心受到打击的源田自说自话,给自己的肩章上加了一颗星结果“临时晋升”成了上将。这件事情在航空自卫队内影响很坏,引起了极大的风波。最后,得到宠爱的源田并没有受到处分,事件也不了了之。但是,我们从中也可以窥探到一些源田的内心世界。
, u* ^- U/ d8 V. n: e$ i& U    此外,源田虽是一名战斗机飞行员出身,但是并没有任何实战经验。战后,源田取得了喷气机飞行员的资格,并对此大大自我吹嘘了一番。但据他的航校教官评价,源田的飞行技能是极其“令人失望”的那一种。
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4 P8 g* Z) K. z# o" i* c- d4 z$ G    除此之外,源田在中途岛海战,台湾海大捷之中也曾扮演过并不光彩的角色,这里就不一一表述了。% f3 i  n2 j: j5 t
    最后,笔者声明一点,写这篇文章的目的并不是想给源田实这个人摸黑,也不是想靠揭一个死人的短来出出风头。我只是想将另一个不为大家所熟悉的,光环背后的源田介绍给大家。毕竟,在这个世界上人无完人,不管源田实这个人到底如何,他作为二战日本海军航空兵的主要人物这个事实,则是无法改变的。他将一直被后人所研究、所关注、所评论!
1 f/ N; u- I. b) _' S% g2 w
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《注》:本文主要依据日本维基的相关记载编辑整理而成

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4 V: L) D" c# F% Q% E[ 本帖最后由 人猿 于 2008-10-20 12:04 编辑 ]

回复 2楼 brokos 的帖子

Wiki也是根据别人的著书和回忆抄录的内容,不是捕风捉影,凭空想象出来的。
7 d5 X$ y8 C3 H8 u在某些方面,维基的可靠性比某些国内错误百出,抄来抄去的记述可信度高多了

回复 5楼 kevinyac 的帖子

是的,当时日本国内普遍缺油,但是自杀兵器等优先部队并不存在这个问题

回复 9楼 hyyy 的帖子

给维基定性的是谁?定的是什么性?敬请告知!
1 I4 j; U5 a& x此外,劝告(警告?)的言语是针对本帖的呢,还是针对其它帖子,也望告知。
5 p/ Z9 \) d0 Q0 N- e而且,我也希望,论坛的管理者可以先通过短消息的形式与有问题的网友取得联系,对某些行为进行引导。
8 h1 I$ z4 F- t9 r论坛管理者需要尊重,网友也需要尊重。

参考文献

源田与樱花炸弹的关系,摘自柳田邦男著「零戦燃ゆ」' N- l+ C4 z9 J4 p" Z: d
源田的战斗机过时论以及与柴田的对立,摘自 碇義朗著『鷹が征く 大空の死闘 源田実VS柴田武雄』(光人社、2000年) 1 [, B7 I  Z0 j& F; v% x
                                         碇義朗著『激闘 海軍航空隊 「零戦」の柴田武雄と「紫電改」の源田実』(光人社NF文庫、2007年)
5 n  t2 L; x. C  M; k6 O, q                                         吉村昭著『零式戦闘機』
6 D" i3 B7 O5 ?: K) y) L源田主张343部队参与特攻的事情,请参照志贺的回忆录

回复 13楼 hyyy 的帖子

噢,我懂了。
7 h4 O# W4 c' S' D* S可能是因为老是在日本的维基上查一些战史资料,所以比较喜欢引用一些那里的记述。(其实,那里的战史、战记资料是很不错的)+ n3 I- P) f0 g9 G( ~( d- `
当然,反动资料是不会随便转载的(其实也链接不上!)# \* Z9 W4 M7 R' Z( @5 Z" Q" b
今后,尽量将那里数据或是内容的出处写出来,以正试听。
0 C6 y1 y$ s: |  A) B如果有误会的地方,敬请海涵

回复 8楼 alwy 的帖子

343部队使用的是紫电改型海军战斗机
- v6 B9 m* A# x0 \6 o  `0 A9 Z3 M
: c8 P  z3 z3 t9 ]/ [
% H/ \9 T2 l; s
  h: z, u: L* c; o7 ]3 i过去,一直以为343航空队是精锐,从成立到战败,累计击落美机170余架,自身损失74名飞行员。$ u- ], M: k8 h6 b
但实际上,343航空队实际是由一群新手和少数骨干的尖子飞行员所组成的,并不全都是有经验的飞行员。而且,对照日美双方的战果记录,发现343部队的成绩有很多的水分在里面。很可能自身的损失还要超过实际击落的美军飞机, V' {) b. r% s0 E

& F, W% \% r' }& r$ ~9 j  C[ 本帖最后由 人猿 于 2008-10-20 21:10 编辑 ]

回复 15楼 oldcat 的帖子

战后,源田的回忆录里,对于“战斗机过时论”是以一种第三人称加以的记述,似乎和其毫无关系。
" [6 O" r: J8 [7 V+ p2 W7 I, e不过,在他竞选参议院的时候,旧海军内的一些关系者,对于当年源田鼓吹的“战斗机过时论”,造成自己从战斗机飞行员变为轰炸机飞行员一事耿耿于怀,公开表示不会为源田的当选摇旗呐喊。
3 ?4 ?. D: l. R5 M8 i2 ^$ h7 q
* |2 }$ a/ w6 ?此外,在给零式战斗机定型的时候,柴田对于源田过度强调单机格斗性能,从而放弃火力、防护的做法进行了激烈的抗争。在这一点上,在吉村昭所著的『零式戦闘機』中也有提及。" R4 g8 x! g( k8 G/ d

- {3 e7 |" h2 H9 y$ H[ 本帖最后由 人猿 于 2008-10-20 21:33 编辑 ]

回复 18楼 oldcat 的帖子

这个主要是翻译的问题。我将日本海军的雷击机、俯冲轰炸机统统归为了轰炸机的范畴。更何况,日本海军的任何一款雷击机,都是炸弹和鱼雷可以互用的,称为轰炸机并不为过吧。
' Y9 i) J% u7 i& p' \5 z至于无战斗机护航的陆攻远程轰炸,日本海军在中国又不是干过一、两次了。1937年8月15日,日本海军的96式陆攻20架从长崎的大村基地空袭了中国的首都南京,拉开了日本海军远程轰炸的序幕。开始的时候主要还是从九州基地飞来,对南京的空袭。后来,随着战争的推进,日本海军也参加了对重庆的野蛮空袭。九六式、一式陆攻轮登场,制造了一笔笔的血案。但同时,由于缺少战斗机的护航和日本飞机轻视防护,也造成了较大的损失!
! K% g0 u/ t3 y. S
9 A* i. r# U  B- E至于源田和柴田关于零式战斗机的定型之争,请参照 碇義朗所著『鷹が征く 大空の死闘 源田実VS柴田武雄』(光人社、2000年)一书。同时,吉村昭所著的『零式戦闘機』中,对于“現場の実技面と格闘戦を重視する源田と、今後の運用面や技術面を注視する柴田との口論が描かれている”。
$ e" U5 W1 D/ {6 s
: M- p8 R2 d3 d# i5 y" j! }/ v) `最后,说到零战的某些结构问题,在2005年8月13日日本NHK电视台播放的特别节目《零战的缺陷》中,引用了原三菱重工的主任设计师,参与过零战设计的曾根嘉年所遗留下来的大量珍贵资料,从而发现由于海军的干预以及过度的要求,从而造成了零战的强度和结构脆弱、不适于大量生产、缺少防弹功能等诸多缺陷。并且,这些缺陷是在海军内部负责航空兵的关系者(包括源田)的默许、无视、隐瞒下进行开发、生产的。而且,对于零战的改良,这些海军的关系者也没有同意!

回复 21楼 hyyy 的帖子

这个我来解释一下,我并没有说这篇文章里记述的内容都是正确无误的。我编辑此文的意思是想说,源田实这个人在日本其实也是一个比较有争议的人物,对他有这样那样的非议。( G7 F1 p! `$ X9 T! I3 i! }
文中,比较有争议的地方就是零式战斗机的所谓定型问题以及“战斗机过时论”时期源田的影响了。那么,我们可以就此验证一下!
& z1 w( F$ U( u$ R6 ?( o- s    关于“日本海军战斗机无用论”中源田的表现,请参看柳田邦男所著《零式战斗机》文艺春秋出版1980版129页的记述:0 U8 W) r1 A4 m' h) [8 @, o
『戦闘機無用論を最初にいい出したのは、ほかならぬ戦闘機乗りのパイロットたち、それも横須賀航空隊の源田実大尉らの錚々たる連中だった。
+ `* R% T0 ]) Q7 e# H% S" c無用論の論拠となったのは、大型機のめざましい性能向上だった。つまり、爆撃機・攻撃機の開発が世界的に進んだ結果、爆撃機・攻撃機と戦闘機との性能の差が、速力の点でも、機銃の点でも、あまり変らなくなり、戦闘機の威力が、相対的に低下してしまったのだった。
' O$ Z. H) I/ ~0 ], E* s; Q2 P, ]だから、「もはや戦闘機による制空権の獲得という考えは信頼できない。雷撃・爆撃の攻撃力を強くしたほうがよい」というのが、戦闘機無用論の主張だった。! r1 n6 J5 P7 `0 s
これに対し、軍令部や航空本部も、一時期同意して、戦闘機のパイロットの養成を削減したほどだった。
# k7 o8 G2 A' g+ [! \7 Z2 R( e9 kこのような戦闘機無用論は、昭和十二年に九六式艦戦が出現するまで続いたが、その根底にあった問題点は、当時の戦闘機の性能が、いっこうに向上する気配を見せていなかったという一点にあった。したがって、戦闘機無用論に対しては、航空隊の中にも、航空本部の中にも、強い反対論があった。5 o3 t" y4 Y% ~- j- o/ E
「現用機の性能からだけ、戦闘機の無用を論じるのは、間違っている。速力や機銃の威力は、単座式のほうが優れているのは明らかであり、もし現用の戦闘機の性能が不満足なものであるなら、性能向上に努めるべきである」( _( n* m$ K! i( c9 C4 O" H
というのが、反対論の趣旨であった。』  X, W( n9 b( {1 X% I
! f* a* J5 r8 a! p' E# X  V0 F* g8 A
    可见,当时身为横须贺航空队大尉的源田是“战斗机过时论”的积极倡导者,在这些基层倡导者的建议下,军令部、航空本部也受其影响,将战斗机驾驶员的培养进行了大幅度的削减。这种意见的争论一直持续到1937年九六式舰载战斗机问世以后才渐渐销声匿迹。+ l2 e  P& K& k% Y8 j7 ?( ?" c7 R
    综上所述,源田在30年代曾经为“战斗机过时论”摇旗呐喊恐怕不是捕风捉影的信口开河
5 p) f: N9 O9 t& ^9 [
6 f) }7 n1 V: |/ r" o  t2 h[ 本帖最后由 人猿 于 2008-10-21 11:01 编辑 ]

《零式舰上战斗机物语》中的柴田、源田之争(证据)

『さて零戦の原型である十二試単戦の設計に入ったメンバーでしたが、海軍の要求が陸上の五種競技の選手に総合はもとより各競技に世界新記録を求めるようなとんでもないものだったのです。
- s$ a2 W- K5 i& W" ^+ H速度、格闘性能、航続性能、武装などいずれもが相反する性能を一つに纏め上げる作業が続きます。それに追い打ちを掛けるように海軍の考えるところが二分します。有名な源田、柴田論争で格闘戦至上主義の源田論と速度、航続の柴田論に二分され、現場パイロットの間では源田論が優勢を占めます。
) N" ?9 c! k7 Z' L; U  _  G1 Uこの辺りメッサーシュミットの速度、上昇力に割り切った考え方とはまったく対照的です。結局結論の出ないまま十二試艦戦の試作は進みます。
8 ^! p" z# O$ t/ c: w海軍は源田論を基にした格闘戦闘機を要求しますが、再計算をした堀越技師はこれを説得、十二試艦戦の試作を続行したのです。さて、先の世界新記録保持の五種競技者の件を堀越技師はどう乗り切ったかですが、兎に角徹底した重量軽減と後に剛性低下方式と呼ばれる撓みを活かした新方式(戦後に堀越氏はこの論文で博士号を受けています)の操縦系統で速度と空戦性能の両立を図り見事に成功したのです。』
: R' d* b4 @; W0 r7 ?http://www.hasegawa-model.co.jp/KIKAKU/zeek/zero1.html% K& q& A4 }& d" Q- \' l% k- w
* l; p( q9 V0 x1 {7 {- ]  T
此外,还有  U% E* C1 f9 i- s
『1938年1月、軍民合同の研究会にて海軍側から先の要求を満足させる事を求められたが、その際に中島飛行機は実現不可として試作を辞退し三菱のみの制作となった。
6 j% T1 W4 J2 L- K    新戦闘機のエンジンには軽量・小型で出力が875馬力ある三菱『瑞星エンジン(三菱のエンジンは星関係の言葉が命名される)』が装備される事に決まった。) {9 {: L6 i' \
超々ジュラルミンが材質に使用され、突出風防を使用する事により視界を良好にする等の工夫がされた。+ a+ ]7 ]" g' r$ e
 新戦闘機について度々議論が行われたが、源田実少佐(後の南雲機動部隊航空参謀)と柴田武雄少佐(当時、空技廠実験部所属)の間で格闘戦重視した軽戦(源田)か操縦員の技量でもどうにもならない速度(+航続力)を重視の重戦(柴田)かで争われたり、現場から20mm機銃不要論及び長大な航続力は不要との論が出たりしたが、結局三菱が格闘戦重視・航続力大の案を海軍に提出し、その案が採択された。』
" k; a8 ]; j9 N0 k, Yhttp://goinkyox.com/Gunji/Warplane/TypeZero.htm, R$ b& ^3 j$ v. z- n& b7 V( t$ L
3 Q6 _1 u6 \+ i) b' ]
还要在说明下去么?!8 v+ l* L# e) y$ s% E# l
9 E; f6 x* A) D* q' |
[ 本帖最后由 人猿 于 2008-10-21 10:59 编辑 ]

回复 25楼 hyyy 的帖子

证据都上去了,可以自己看。
' R% k# m1 {3 j1 f如果这些都说服不了的话,那我无语。

再看看战斗机无用论的具体经过

看看吧,当初提倡战斗机无用论的这条线是山本-大西-源田:
3 u& I2 T& a1 B5 ]& D! ]" ]9 x『海軍戦闘機を語る上で切っても切り離せないものが「戦闘機無用論」である。そして8 j$ J# ]) j9 G) [
それを主唱したのが当時航空本部長でワシントン及びロンドンの軍縮条約による艦艇
% H) D) s5 }' h% ^; Y$ h' uの数の劣勢を飛行機(攻撃機)で補おうとした山本五十六中将と航空本部教育部長の
: |$ r( y0 H% Z+ H大西滝治郎大佐の後盾のあった戦闘機搭乗員出身の源田実少佐だったのである(いわ
0 z& r1 V4 C! t% W! I2 Q5 h1 yゆる山本-大西-源田ラインである)。大西滝治郎大佐は戦艦無用論(航空主兵主義た
. H/ `1 ]) l# Nだし戦闘機でなく攻撃機偏重主義)を主唱している。さらに戦闘機無用論と密接な関6 J+ ?7 B- y- g; T5 E  H
係のある援護戦闘機無用論者でもあった。』/ j/ o3 {" i, g
http://www.warbirds.jp/kakuki/kakjitu/senpu_rm.htm

96式陆攻与战斗机过时论

『1935年日本海軍は九六式陸上攻撃機を世に送り出した。(最高速度373キロ)
) E; b" l% y( r& g4 J双発、全金属製、引き込み脚、単葉の革新的爆撃機(防御力は犠牲)であった。
  |8 o9 `* H6 i& s% ]) Gその当時の海軍戦闘機は未だ複葉機しかなく、その九五式戦闘機の最大速度は352キロ。
& y4 k& M# i% G+ s$ ^( J大西大佐はワシントン軍縮条約で対米比率6割に制限された主力艦の不足を補完するために
1 {4 A% B" F' W海軍爆撃機、攻撃機の拡充のために、戦闘機パイロットの養成を縮小しその分攻撃機の搭乗員に: Z- c2 S! {, c2 o& T
廻したいと考えていた。
9 X2 s% B. {1 v0 X% P6 @おりよく海軍部内で九六式攻撃機に九五式戦闘機が追いつけないという問題提議が起こった。6 Z& A0 \' @) M/ t8 N0 z5 [
そこから「戦闘機無用論」が広がっていく。" O* {9 h$ f3 K- l  e
(中略)& C4 C. K' M- w- Z
実際に運用された「戦闘機無用論」(実際は戦闘機隊約3分の一削減)だが
. Z1 X  E  p' A  o0 C* o1 \日中戦争(シナ事変)が始まり「戦闘機無用論」の張本人であった大西が慌てふためく。
3 x( U! Q3 ]" j馬鹿にしていた中国空軍の劣速の複葉戦闘機に最新の96式攻撃機がバタバタと墜されたのである。
% t% \$ z4 ~( w. m6 F" p延べ100機以上の九六式陸上攻撃機が墜され戦死した攻撃機の搭乗員は600名を数えた。/ Z7 f2 W3 p/ k. T6 ~6 u
ここで「朝礼暮改」であるが護衛用の戦闘機隊の増強が急務となった。
1 A1 }0 m  L3 k
1936年新しい戦闘機九六式艦上戦闘機(最大速度451キロ)も登場し爆撃機や輸送機に) H$ V1 |) a& a( N) e
廻されていた元戦闘機パイロットも戦闘機隊に呼び戻された。』
3 R) R6 {& x# ^' ~" ghttp://blogs.yahoo.co.jp/naomoe3/40586016.html, k) g# M# z* L
0 O% v6 I: K4 e6 L2 ^7 b
再看看渊田美津雄的回忆录,《真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝》7 A: L; c9 {" i5 Y0 k  p
3 }% |- ]1 F# p0 w
『源田サーカスと異名を取り有名な戦闘機乗りパイロットが戦闘機無用論を唱えたことに違和感を感じる人も多いかもしれないが、それが事実である。96式陸攻のカタログ性能の素晴らしさに驚き、これでは戦闘機はいらないと主張したのである。ところが渡洋爆撃で被害が増えると戦闘機無用論は消滅し、戦闘機を要望する声が大きくなった。爆撃機搭乗員の戦闘機無用論に源田氏が荷担したのである。そして零戦開発では、柴田氏の速力火力論にたいして、源田氏は旋回格闘戦性能を要求した。それを堀越氏が上手く纏めたのが零戦であった。そして最後に松山に紫電改を集めた政治力と戦術センスの無さを露呈した。』
* U( a+ R( x% U$ \1 U$ yhttp://blogs.yahoo.co.jp/hiromichit1013/54563706.html( L3 P' w' y" n" `
. o& Y5 K6 f; l/ G; o
[ 本帖最后由 人猿 于 2008-10-21 11:26 编辑 ]

回复 31楼 oldcat 的帖子

■戦闘機無用論■" u9 d1 Y, M- m; U0 X  n
海軍戦闘機を語る上で切っても切り離せないものが「戦闘機無用論」である。そして9 K' ]8 L. a" N
それを主唱したのが当時航空本部長でワシントン及びロンドンの軍縮条約による艦艇
6 t2 t2 q7 S9 G: @$ ^& tの数の劣勢を飛行機(攻撃機)で補おうとした山本五十六中将と航空本部教育部長の
4 |: d) J" i- {2 \$ P3 y3 d大西滝治郎大佐の後盾のあった戦闘機搭乗員出身の源田実少佐だったのである(いわ
% \2 I) `% x) r! X5 A, j4 x6 ~& i/ fゆる山本-大西-源田ラインである)。大西滝治郎大佐は戦艦無用論(航空主兵主義た
& ]% y4 z: ^6 p) a" D; V7 dだし戦闘機でなく攻撃機偏重主義)を主唱している。さらに戦闘機無用論と密接な関
" y# `% @* ]) O) Q9 |1 V係のある援護戦闘機無用論者でもあった。- C6 v  q- W( n) q' l
戦闘機無用論とは第1に「目標(攻撃機)の速度が速くなったので弾が当らないので
1 g5 H. [+ [8 o" P戦闘機での攻撃は効果がうすい」である(しかしこれは射撃角度制限のある吹流し標
3 k6 d( k7 k+ v3 W$ R的を前提にしていた)。第2に96陸攻が木更津航空隊で実用試験中で近くの館山航空! w+ U8 |9 n$ D& Y2 T0 m
隊の90式艦戦との模擬攻撃演習が行われたが時代のちがう飛行機の組合せと特殊な態1 E9 r- n- q$ z8 @6 W- e. T
勢で一時的に戦闘機が追いつけなかったことなどを考慮しないで「攻撃機に追いつけ
7 M* n2 u7 ~6 H5 K6 i" f9 ]ない戦闘機など役に立たない」という理論である(数に限りのある空母艦載機は能力
9 _8 Z  [, o1 B3 L3 P: ]4 T不足の戦闘機よりも敵艦に被害を与えられる攻撃機を増やし軍縮条約で艦艇数不足を# b4 r$ S! o$ H/ x/ O" K# n
補うというもの)。この戦闘機無用論者は山本五十六中将(無用論賛成採用者)・大: ?8 j+ P3 j, t( w' I
西滝治郎大佐(無用論賛成採用者)・三和義勇少佐(横空戦術教官で無用論の支持者)1 X, j1 l, C7 F* ]; M6 `9 W% G, D: i
・源田実少佐(海軍大学生)・小園安名大尉(横空分隊長)で横須賀航空隊は戦闘機! O1 N( c0 M, h% }  _4 I6 ~2 ^
無用論の発信地となった。がこの当時の海軍航空界における実力権力No.1である山本! `, Y- E) h# z' E) b: p9 S! P# [1 W
五十六中将とNo.2である大西滝治郎大佐が賛成しなければ昭和11年度の兵力配備にお8 }* A7 x0 ?& p/ c( l% p# o( L$ W  f
いて実際に戦闘機数が三分の一削減され戦闘機搭乗員(多数の下士官搭乗員が艦上爆0 E! t5 @) b* l- X
撃機や練習航空隊にまわされ士官も同様であった)およびその養成員数その他戦闘機
" ?# e) j+ q% @) G( J, Jに関する一切が削減されるようなことはなかったのである。昭和8年夏の横空で行わ" d6 C6 t5 l! `% ]1 K
れた研究会で雷撃機分隊長の日高実保大尉が「実戦場において発射前の被害を最小限: H: F2 d# W4 u' g9 j/ h8 G5 ^
にとどめ多少の遠距離からでも命中率を上げるための対策として発射法(高高度高速
  V: k" r) y5 K& X4 D, C4 B) Q0 Z発射法及びそれに適応する魚雷の発明や改善)や雷撃用測距儀や射点測定器等の兵器
5 {3 |4 Z6 \# m) J# H3 s: t, ^の発明や実戦的な訓練法等を抜本的に研究する必要がある」と。そして戦闘機側から* {4 G& v+ r8 X1 s* }2 s( |* ~
柴田武雄大尉が「戦闘機の威力を発揮するには被害を最小限にして有効な命中弾を得
7 @+ y; M' G2 i; Gる適当な射距離から射撃する必要がある。しかし射距離が多少延長し命中効率が低下6 q9 ]  C; j; p: q" J  i( U
する。そこで命中効力(命中効率+弾薬の威力)を向上させるため優秀な照準器その
4 Z0 A" k$ b7 z9 T3 y他高性能の兵器弾薬等の発明ならびに実戦的な訓練を実施する必要がある」と述べた。+ A* R- N0 R9 j# K; B  r* d9 e$ \
すると山本五十六中将(海軍航空本部技術部長)は「今若い士官達から射距離を延ば
" ^4 g( o& ~- {2 {/ P3 h  Jすという意見が出たが言語道断である。帝国海軍のこんにちあるは肉迫必中の伝統精
4 L' c) F6 ~5 \. m神にある。今後1mたりとも射距離を延ばすことは絶対に許さん」と言ったという。こ
; A( p" V% ?' Wのように長い時間をかけて作り上げ受け継がれてきた伝統には尊重すべき点も少なく
3 Z5 C% e4 E9 U2 @% @なかったが中には時代にそぐわなくなったものもたくさんあった。それに気づかない
+ }- N7 v3 O' S* j0 p  Tか気づいても改めようとしない頑固さや融通の無さは進歩や発展のさまたげ意外の何
2 K* O3 p& b4 V9 {者でもない。精神的なたとえとごく物理的な論理を混同しあることを口にすると「そ1 l$ y. e0 f& E0 K8 m, S. A
れでも日本人か」などと返答に困るような抽象的な言葉で切り捨てようとする傾向は
: F4 q) M( X0 }6 q; ?- [8 Y! c3 j海軍陸軍に限らず一般社会(現在でも)でもしばしば見られるのだが。それでも大西
7 a$ W7 i# F- x+ k1 Oは戦闘機無用論によって激減した戦闘機搭乗員に危惧を抱き昭和11年末に新鋭の96艦
! B0 r6 X, h" \2 ^# X戦が大村空に配備される時攻撃機出身の池上ニ男少佐を大村空の戦闘機飛行隊長に任
& S/ S5 p# Z0 W' Q1 a% u) p( Aじこの新鋭機をもってしてもなお戦闘機が無用かどうか研究するように命じた。そし+ V& e2 t" m: Y& Y' y& g
て昭和12年4月に佐世保鎮守府で攻撃側が鹿屋基地の96陸攻と防御側が大村空の96艦
7 ]+ o6 Q7 F- [+ I, e; b1 F戦での防空演習でが行われたが当時は総合的な防空システムの不備により攻撃側の完0 o3 O8 v, Q  }9 i( r' f/ v
全な奇襲攻撃となり戦闘機の有効性を発揮できなかった。この結果によりさらに戦闘( O& ^0 R- a. o  q! D6 G+ k
機無用論の勢いが大きくなってしまった。もとより戦闘機無用論は大多数の戦闘機搭
# u8 t$ u/ e+ h1 W3 j( ~8 W乗員達にとって我慢ならないもので戦闘機以外の海軍軍人の中にも疑問視する声はあっ
# _6 }2 U% z1 @" K' M+ Y9 V8 J* B5 kたが海軍航空界における実力権力No.1である山本五十六中将とNo.2である大西滝治郎
0 o* U9 c1 `" P& C1 I大佐を否定することは海軍の席が無くなる事をも意味するので既に実施された戦闘機
, a: {- s* V8 x" o: `削減の方針を覆そうとする者はいないと思われた。しかし第2連合航空隊司令部の先0 z3 g, \( g+ Q; E' j3 {% a
任参謀の小田原俊彦少佐(初の夜間発着艦や方向探知機による盲目降着法の実験に参& H  h: L2 u! K- `( D0 f
加したのをはじめ航空廠飛行実験部時代の戦闘機用急降下爆弾照準機の考案など多彩
% R; E, E5 k& Bな経歴の持ち主)は「戦闘機は最高速度を少し犠牲にしても格闘戦に強いのがいい」
: p! q" E' k! h6 t3 {* O& k' yとする横須賀航空隊の意見に対し航空廠側の意見として「飛行性能こそもっとも重視
/ i1 W1 A& x1 l7 a, k/ F* d8 eすべきであり格闘性能を重視するあまり最高速度を犠牲にすることは絶対に避けるべ5 @  q7 a5 S2 s
し」と横空と対立する意見を主張したことである(この頃はまだ横空とは同調してい- [! F; M- i% ?9 A5 d) h
なかった)。さらに「旋回半径が小さいのが空戦に有利ならば速度の遅い初歩練習機
  t4 G& }1 Q& |が空戦に最強という結論になる」と。そしてこの戦闘機無用論に立ち向かったのが後
5 s3 j" G" K) H盾のない柴田武雄少佐であった。柴田は「高速で射撃制約条件の少ない曳航標的の開3 ]. x. m! G/ R# b/ c" Z1 P
発(2機でV字状の曳航索で標的の吹流しを引っぱる方法で弾痕調査が困難なほど多数" l& J: \8 M" O/ c6 n
の命中弾を標的の吹流しに撃ち込み物証として実験報告と共に横空に送られたが素直
# v( n) A5 r* Iに納得しなかった)」「戦闘機搭載機銃の全弾無故障実験及び改良」「旋転戦法の開0 G& \* ?- i* R8 ^
発」「改正・空中戦闘教範草案」「海軍演習審査基準に対する改正意見具申」「戦闘
( R5 O* \  y  M* y' K0 Y, ]/ x0 O機の航続距離を伸ばすための落下タンク装備の強調」「艦隊決戦時における戦闘機用, i) e) K( n7 e+ l
法」の論文を提出したが海軍上層部は黙殺した。しかし柴田は負けなかった。「高速9 ^" R. [" i- G" M7 ^8 ~6 s- o" ~9 O
垂下標的(曳航は1機で曳航される標的が曳航機の後下方すなわち垂直面である角度
: R: Y4 f3 J8 {2 V; v! lを保って曳航される標的)の開発(空母加賀艦長稲垣生起大佐の強いバックアップに
0 W& m7 A7 y  y- n: }9 Gよる)」に成功するのだった。そしてこの高速垂下標的の優秀さと柴田が主張した戦
9 F) k, y( Q; F: {闘機による射撃の有効性が実証されたのは昭和12年5月に行われた連合艦隊航空戦技
7 ?( y) J% v: i/ N+ h5 Kであった(この時柴田は空母加賀の戦闘機隊長)。加賀戦闘機隊が使った標的は他艦
- x% l; a; I2 U  E4 Cで使われた普通の吹流し標的に比べてスピードは25ノットも速く表面積は約四分の一
/ A6 k% S" }5 u" u5 hだったが発表された標的命中弾数は加賀が一位だった。しかも1機当りの命中弾数は( e% \% ^$ r0 F+ D: T3 G- g, U
ニ位になった他部隊の約10倍で標的の表面積が約四分の一だったことから単位面積当
' a5 _  V; S0 f4 Oりに直すとじつに40倍になるという驚異的な結果となった。柴田はこの成果をたずさ
1 E5 [" j8 ]4 e+ R9 r; lえ連合艦隊旗艦「長門」の後甲板上で開かれた戦技研究会に稲垣艦長と共に出席した。
2 N0 I1 V8 i: d9 U( Pこれには連合艦隊司令長官・海軍省・航空本部・軍令部などから出席している中で柴8 [/ F$ ?2 Y1 Z: I  P3 V
田は戦闘機無用論の根本的な誤りを説き戦闘機の有効性を戦技での射撃結果を示しな2 Y! I& e- g; x( j" J2 M, M. x' J; U
がら述べたのであった。このあと稲垣艦長が柴田の意見を全面的支持し戦闘機無用論: n+ T4 w3 i/ J6 T
の再検討を促したが海軍上層部の反応は依然として鈍かった。しかしそれから3ヶ月
" j5 F  S" J2 f" F- d+ E後の日中戦争で実戦の容赦ない現実が戦闘機無用論を霧散させ柴田の主張が正しいこ
; S* ~. O+ B4 h; h4 {) v% [( |とが実証されたのだ。かつて佐世保鎮守府管下の防空演習で成果をあげた鹿屋基地- v" i/ D7 K1 N5 ^2 V
の96陸攻隊の渡洋爆撃も敵戦闘機の激しい邀撃で可動機数は半分に落ち多数の戦死者% ]1 W2 S* q6 v$ X: _( b3 a
を出した。さらに空母「加賀」の96艦攻/89艦攻/94艦爆の混成部隊も大きな犠牲を出' Q  u, \+ @* [
した。これは90式艦戦の航続力不足から戦闘機の護衛が無かったからであった。そし
; A' M8 Q" O) wて89艦攻隊の中でただ1機敵弾及び敵戦闘機に応戦する為に発射された自機の機銃弾% V" n6 B7 N. b9 D
でボロボロになりながら帰還した田中正臣中尉から次々に敵戦闘機の餌食となって撃! C. ?: m' v" Y
墜された艦攻隊の悲壮な様子を聞かされた柴田はあれほど戦闘機の重要性を力説した; P7 I2 P4 L7 @& D
のに真剣に取り上げず逆に軽視したことがこういう結果を呼んだのだと深い悲しみと
# L" j/ I7 j: I# sどこにもぶつけられない憤りを覚えたのだった。戦闘機無用論のもたらしたあまりに
6 W3 w8 @* f# R/ ?も高価な教訓は全海軍に強い衝撃を与え戦闘機の必要性はもはや疑う余地がなくなっ
7 w9 z  S4 F* }- |たどころか一足飛びにその強化が最大の急務となった。艦攻/艦爆などに転科させた. U, {/ J. V8 }/ G, k% M4 f
搭乗員(この中には日中戦争でのトップエースの1人でもある田中国義兵曹も含まれ
4 y$ O  P! r. D! Zていた)だけでは足りず逆にこれらの機種から戦闘機に転科させるなどの処置が至急
2 \: x8 W/ k" w/ r$ `1 D3 Gとられた。さらに戦闘機の数や性能不足はもっと深刻であった。90式艦戦では敵のボー- l. ^+ G( X9 p+ K  V, k$ f
イングやカーチス・ホークに太刀打ちできないし航続力も短いから攻撃隊の援護も思" i/ J4 x1 z, H1 |
うにまかせないし旋転戦法も生かしようがなく搭乗員はもっと高性能の戦闘機を望ん
) M) q! s; ~; ~6 \- tだ。彼らの切実な要求を代表して柴田は海軍省や航空本部などに押しが利く稲垣艦長
2 F6 s; x! p% g- b+ Tに頼み新鋭の96艦戦を配備するように電報を打ってもらった。手痛い戦訓のショック
3 S. ^; N. m, Z! H8 mを受けた後だけにまだ数も少なく脚が弱いので着艦に不適当とされ空母にはまだ使用
( x0 c1 b/ X$ ^6 E1 {されてなかったが着艦して問題なければやってもいいとの返事がすぐにもたらされた。
3 A: B. b! Y7 B7 M; O8 c艦長の指示で柴田と先任分隊長の五十嵐周生大尉が大村空へ行き各種の飛行を試し母2 a2 y1 m5 O/ K% I9 _1 K0 K
艦の加賀に向かい無事着艦し「着艦適当ナリト認ム」と中央宛に電報が打たれ早急に
$ G2 E, V9 d- O& ^0 t$ E配備が進められた。そして敵戦闘機に対し96艦戦の強さをまざまざと見せ展開された6 ~7 L; C. f" U) J/ V& k
航空撃滅戦の主役を務めることとなり戦闘機無用論は完全に消滅した。この96艦戦1 N4 _' [: M. v) f# j
(9試単戦)は7試艦戦の失敗から海軍の要求仕様から艦上戦闘機から単座戦闘機とし6 q8 A- E# c# k
艦上機特有の制限を除外したことが7試艦戦の失敗を克服し成功の要因となった。し
" W, {" D. S$ ?かしこの成功が横空の格闘戦至上主義に拍車がかかり設計者を苦しめるのであった。, A, s! ~; c( c% S! o+ k1 L; \
このような中で12試艦上戦闘機の計画がスタートしたがその要求は過酷だった(この
+ b1 ?; J" r; g% Y: M" D; a0 n' O頃無用論は消滅していたが零戦開発時の計画要求やその基礎となった「航空機種及び
" U- J& G6 [4 \+ V性能標準」が作成された頃は無用論は生きていたのでその影響を多分に受けていた)。5 S/ ]' N9 m1 D9 L% j  Q: i
そこで堀越技師が速度・格闘性・航続力を同時に満たすのは困難なのでその優先順位, S# a6 Y+ V1 d" G/ _0 \) m
についての質問に、戦闘機での実戦経験のないにもかかわらず戦闘機無用論を提唱し! u% p3 M3 b7 U* i
た横須賀航空隊戦闘機隊長の源田少佐(実戦では役に立たない曲芸飛行を得意として
/ h6 O, [: i" h; r) Oいた)が「空戦性能を第一としそのため速力や航続力が多少減ったとしてもやむをえ
' r0 U: b+ W* |+ m! c& Gない」に対し四面楚歌の中で戦闘機無用論に反論した実戦経験豊かな航空廠飛行実験. X+ W6 |2 {$ n# w. q) Q8 |
部の柴田少佐は「敵戦闘機による我が攻撃機の被害は予想以上に大きい。これを援護
* a: r4 M- ?( k" C) \: m5 s3 B# Lするには双発の複座あるいは多座戦闘機では航続性能では要求が満たされるかもしれ
6 l3 Z' W8 {  z7 ~7 H7 L! o+ k7 oないが(12空案)空戦性能で敵の単座戦闘機にかなわないからどうしても単座戦闘機
: i2 @- {6 ~8 A7 V8 Y1 Dでなければならない。したがって大航続距離は絶対欠かす事はできない。速度につい
2 M) \0 b* B5 U9 [9 \- H: pても逃げる敵機をつかまえて格闘戦に引込むには1ノットでも早い方が良く速度も不' T) Q/ h9 F8 b; t
可欠の要素だ。いかに技量優秀、攻撃精神旺盛な操縦者といえどもその飛行機に与え6 I) f) a0 i# _! b
られた性能以上にはどうにもならない速度や航続力、とくに航続力を優先し空戦性能
3 J4 O! N7 ?% A1 s! D) ?2 K5 _は訓練によって劣勢をカバーできる程度の強さでよろしい」と。この柴田少佐の発言2 [* j+ ]5 z( y
の裏付けとしては、彼が海軍の軍事的な勉強以外に自発的にやってきた航空工学の研
8 ~8 P% l1 H8 s: t9 i$ D究でありもう1つは横空分隊長時代から空母「加賀」戦闘機隊長時代にかけて完成し( g& F( x9 j/ M" A; o) r# X! ~* I
部下を育成してきた「旋転戦法」であった。この旋転戦法を身につけていれば少々の& j" A" h; f9 H- L! c+ E# d: o
重量差あるいは翼面荷重の差など問題ではないという実績によるものであった。この
9 _" ?5 ]1 \7 e& W# T柴田少佐の論理的な意見に対し源田少佐の感情論がぶつかったがこの場の空気を感じ: i' }* Z$ P  c( ]0 ]5 o$ l
取った民間の設計者たちが一段と真剣になってより良いものができるだろうと発言す( \/ F: a7 E( o& i# z
べき地位の人たちが沈黙を守り(客観的に見れば柴田理論が正しいのだが大西/山本
6 O9 J8 S( g. [. x) Uの後盾のある源田理論を否定できなかった為とも言われている)結論がでないまま終
' c+ [: U" ]# V) t. jり設計陣がすべて抱える事となった。柴田は空戦性能を翼面荷重の大小のみで論ずる& H& G$ X+ P5 W0 n, g3 G* l
ことに疑問を持っていた。そこで理論的に解明しようとした。彼は日中戦争で実戦を
2 z" L9 C: I/ w: N! q. r- A3 Y経験して「翼面荷重が小さければ空戦に強い」という伝説がもはや通用しないことを" {4 f6 R9 `4 J6 |
強く確信した。そして得意の数学を生かして「戦闘機の空戦性能算出式」を導き出し
. u- E, E6 F7 o3 b' kた。これを元に各国の戦闘機のデータを入力し空戦性能の比較が一目で分かるように
  _: Q. T1 L: g. D. ]8 K* Dした空戦性能比較表にした。これによって外国戦闘機との比較では予想通り日本の戦$ l9 w' p3 `1 P9 f; F! P) ~  y5 M: m6 ]
闘機の空戦性能が強すぎることがはっきりした。これによって設計者達が空戦性能の  h0 d3 l2 q- ^% U, n! Q( p2 D" y
維持・強化にとらわれる事なく速力や航続力など飛行機本来の性能向上により多くの+ y% [  }$ z2 n% N4 I, {% ~6 J& _
努力を費やす余裕を与えるだろうと期待した。そんな折りに教育部長大西大佐主催/ [" z8 U) i0 X& K% N. o
の12試艦戦研究会が航空本部で開かれることになりこの空戦性能比較表を黒板にはっ\r. m) u# ?' o- s$ L0 F0 z; ~6 _6 T
て説明しようとした時に大西が「そんな飛行実験部的な研究など机上の空論にすぎん。
* Q) f/ i2 s3 J8 c聞く必要はないから止めたまえ」といったという。大西は以前柴田に対し「戦闘機無
5 C' N0 Z0 W" z. ?2 t$ U用論に反対のようだが僕は戦闘機などいらないよ」と自信ありげにいったという。結" p( B! F' O% e9 T$ l& o! U: e% W
局空戦重視か速度/航続力重視かの結論は出ないまま設計陣の苦心の末に零戦が誕生, T0 {/ r) v# I) F& T
した。試作時に空技廠で行われた96艦戦との空戦比較研究で旋回半径は大きくとも旋8 }4 s: p. U; |  M! c5 J* H* K
回秒時が短ければ問題なく余剰馬力があれば96艦戦を格闘戦で抑え得る事が分かり零
0 p7 U) b. _* ]戦操縦参考書には「対96艦戦の空中戦訓連では急上昇と急降下を多用して相手の頭を) ^$ G# f. i0 W9 Q+ V: I6 R# p
抑えるように機動す」とある(のちに米国が零戦を入手して分析されてからはこれが6 `4 U  U' n6 _; y7 `+ `
行われるようになった)。しかし現場の96艦戦に馴れた搭乗員に受け入れられずにし
4 c7 y5 W! d) b# X- Sばらく横空の第一格納庫の片隅で埃をかぶっていた。この現場との温度差が分かるエ2 x- Z1 I* ?: \) A& n8 _
ピソードとして零戦取扱講習会がある。これは昭和15年10月高雄航空隊に戦闘機隊が. D0 Y  ]; \/ b; |8 g) ~5 W
設置される数カ月前に横空で零戦取扱講習会が行われたという。これは母艦、航空隊
, L. S' F+ D6 kの中から選抜された古い搭乗員ばかりなので約1週間で自由に操縦出来るようになり
( W0 f6 p1 l( I0 z8 U4 q/ h講習が終了間近に96艦戦と零戦の単機空戦が各組に分れて同位戦・優位戦・劣位戦が8 ~8 a3 D. g3 r8 z
行われたが、96艦戦に零戦はまったく歯が立たなかった。しかし12機対12機の編隊空
) o0 f. l" O- N0 C* b# v% x0 n戦になると96艦戦は零戦に追い込まれるようになったが。しかしこれが実戦なら零戦
( I  p, @1 o7 S4 I6 p# L/ y隊が優位に立つ前に96艦戦の機銃弾の餌食になっただろうと講習に参加した搭乗員す0 j$ r+ p( }. X/ a
べてが感じたという。空戦終了後96艦戦と零戦で決闘をやれと言われたたらどちらを. {8 Q( @( I, I7 A
選ぶかとの飛行隊長の問いにすべての搭乗員が96艦戦と答えたという。それほど96艦
+ z' [" l$ ^6 g; N+ Q4 v! S, N戦は格闘戦に強かったのである。そんな搭乗員に対し飛行隊長は「固定脚、しかも小
, U5 M" H. k5 V4 i型で7.7ミリを2挺という貧弱な武装、航続力に乏しい96艦戦は格闘戦だけが強くても, P# Y6 i5 c% Z3 ~% z  a
総合戦力では大型、高馬力、大武装の世界の先進国の単座戦闘機に対抗する事はでき
: O, G4 U5 S$ `& mない。この意味から言うと零戦は96艦戦を単機空戦で倒す為に開発されたものでなく3 _2 ^4 Y1 Z. d' e9 l" I
これから先世界列強の戦闘機を相手に征空戦闘機として戦い、勝利する為に生まれた! s0 r1 F5 P# }
のである。しっかり精進してもらいたい」と諭したと言う。戦闘機無用論は消滅はし, Q5 H3 F+ v8 R8 z2 ?# h
たが海軍航空界における実力権力No.1である山本五十六中将とNo.2である大西滝治郎6 V; u& q0 r6 P, C% g) r
大佐の後盾のある源田の格闘戦至上主義が戦闘機無用論に変わって海軍の主流(世界$ d+ X- _8 I5 g) B( ~
の主流から外れて)になり源田は重大な航空作戦を指導していった(源田は「柴田の" N( D0 V' O  z* e4 `0 j
言うことは全部間違っている。たとえ正しくともオレの気にくわなねえ奴の言うこと
7 d' c8 ?$ M3 l+ x/ a$ U' ?( @など絶対に聞くもんか」といっていたという)。そして戦闘機無用論実施の弊害によ
% n5 `% \% t' T4 rるロスを最期まで取り戻せなかった。戦闘機搭乗員の育成には時間がかかる為に零戦
/ F1 X2 @$ U/ |' {, u0 hが世に出た時は既に決定的な搭乗員不足となっていた。それでも太平洋戦争初期は日
$ Z- B! d# C: c, W9 @中戦争を経験したベテランがいて何とか対応できたがミッドウェイ以降は練度の低い! ^+ L$ W' [$ I. Q, m* n( F, Q
搭乗員が大半となり敗戦へ向かうのだった。一度国が定めた事はそれが間違っている
) x& D8 [, f% i& s# }3 Jと分かってもなかなか方針変更されない。そしてその被害はボディブローのように後
6 \8 h' v. A9 f+ B) Zになって押し寄せて来るのである(ゆとり教育のように)。そして一番の被害者は最
% U8 ?0 [' x9 o+ ~0 G$ B& |; m前線で命のやりとりをする搭乗員であった。これらの事を考慮しなければ海軍戦闘機
# u: ^5 [# V/ D; Z: zは語れないのである。このように官側が出した無理な要求を一歩も譲ることなく民間( o- Q7 g: \$ J0 S
に押し付け設計側の血のにじむような努力を考えようとせずに良いものができたとい: v& A2 [* _6 z: i1 J/ y2 k
う事が前例となってそれ以後民間の設計者を苦しませるのだった。これをゼロ・シン
* m  o7 u: ?; h6 _" ?/ jドローム(零戦症候群)と言いたい(今後に繰り返さない為にも)。しかし現在でも
8 Z# w. y& {; ?, q+ c( O" m1 R繰り返されあらゆる業種の下請業社を苦しめている。
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