原帖由 oldcat 于 2008-10-21 13:12 发表 
0 S. j: b' h8 \. I: i. H
2 l# K: }9 N3 D- @$ G+ S, s+ J. t( W
您可以自己看海军队十二式舰战的开发要求
7 y. h8 p% C3 F% ]+ I2 r6 V! X7 a然后再对比一下验收标准
]: Q! T# f- ?% Q* p8 Z
0 K. N/ ?6 w- ]0 Z# W看看零战的最终规格是在38年之前就提出来的呢
% o6 C: V5 Y8 m+ P还是39、40年才争论通过的 3 O4 K" W1 g! f, h
& W1 W: W4 Z0 q/ F6 Y(開発の歴史), A* v+ x) r' O. ], G2 o; s
96式艦戦の量産されてからすぐに昭和12年10月5日にに海軍は三菱と中島に「十二試艦上戦闘機計画要求書」を交付して次の戦闘機の開発を開始した。その頃、三菱の堀越二郎技師らは11試艦戦爆の計画に取り組んでいたのですぐに新艦戦の開発に着手することは困難であった。そのためまず新艦戦の使用する翼断面の研究をすすめ、6月5日に風洞実験を開始した。
7 R; \" C7 m8 o J; K 7月7日に、日華事変が起こったため航空本部は三菱に11試艦戦爆は断念し12試戦艦に全力を注ぐように指示をだし準備が開始された。しかし、「十二試艦上戦闘機計画要求書」は過酷ともいえる要求であったため、翌年13年には中島は競争試作を断念し、12試艦戦の開発は三菱だけで行うことになった。そしてこの計画書にもとずいて三菱は三菱A6M1計画説明書を作成し13年4月10日に海軍に提出した。15年7月24日A6M2零式1号艦上戦闘機一型として制式採用された。(11型)初陣は、15年7月21日の中国戦線であった。* S+ k$ ~9 g3 {8 K$ D/ e( P" v
零戦は11型、21型、32型、22型、52甲型、52乙型、52丙型、53丙型、54丙型、63型まで発展したが実戦投入されたのは52型までであった。
+ G2 c, f$ q# i1 r! o3 t, Nhttp://www.ne.jp/asahi/masa/private/history/ww2/heiki/zero.html
2 G9 D1 Q2 ^' o, l/ m5 x o) X) w1 J8 ~) z1 d) e& y
日本海军在1937年10月5日向两个飞机制造厂提交的十二试舰上战斗机计划要求书,三菱在1938年4月10日向海军回复了三菱A6M1的计划说明书,而前面的资料已经写得很清楚了
1 B" o% ]( R! E4 D2 h+ ?+ a$ m1 g& ^0 m, x4 x
『1938年1月、軍民合同の研究会にて海軍側から先の要求を満足させる事を求められたが、その際に中島飛行機は実現不可として試作を辞退し三菱のみの制作となった。
7 n" S# _- ~* s, _& ^+ I9 ^) H 新戦闘機のエンジンには軽量・小型で出力が875馬力ある三菱『瑞星エンジン(三菱のエンジンは星関係の言葉が命名される)』が装備される事に決まった。
8 s& E; t! I# [- z8 a0 r! l超々ジュラルミンが材質に使用され、突出風防を使用する事により視界を良好にする等の工夫がされた。0 H5 V' a, i; e I0 j7 i: v& \; q
新戦闘機について度々議論が行われたが、源田実少佐(後の南雲機動部隊航空参謀)と柴田武雄少佐(当時、空技廠実験部所属)の間で格闘戦重視した軽戦(源田)か操縦員の技量でもどうにもならない速度(+航続力)を重視の重戦(柴田)かで争われたり、現場から20mm機銃不要論及び長大な航続力は不要との論が出たりしたが、結局三菱が格闘戦重視・航続力大の案を海軍に提出し、その案が採択された。』3 w# N3 Z) N) k/ l
; A7 c" ?9 v2 Y" e三菱在38年4月回复之前,就发生了源田与柴田关于新式战斗机的定型的争论,两者毫不矛盾,前后吻合!( f: j, h* Z+ j, Q% o
(成扫盲课了) |